燃える魂

atsushi-demi2007-06-12

グランラガン

ここのところアニメを見る時間が増えている。

魔神英雄伝ワタル

フルメタルパニック

ふもっふ

TSR

らき☆すた

ぼくらの

天元突破グレンラガン

ワタルに関しては言うことは無い。
ポップでファンキーで
うすっぺらなアイドルアニメだ。

フルメタルパニックに関しても
まぁよく出来たアニメでクォリティーもずいぶんといい。
無印→ふもっふ→TSRの変遷も
エヴァ以降のアニメーター自覚性を垣間見せるし、
萌えやすい作品だ。
らき☆すた ぼくらの、
この両作は現在進行中なので、
また今度の機会にして、
こうしてアニメを見てきて
最後の天元突破グレンラガン
この作品がどうしてものどの奥にひっかかってしまった。
ひっかかっているというか、要注意というか、
なんだか言葉が偉そうになってしまうのだが、
このアニメにはその他のアニメと一線を記す
なにかとてつもないエネルギーを感じるのだ。

言うまでも無くこの作品は
第4話の作画崩壊事件によって、
いや、ぼくは作画崩壊だと思わないのだが、
世間ではそういうことになっているし、
事件というほど公然としたものでもないのかもしれないが、
ミクシィでのブログ炎上や関係者の辞任などがあったから、
事件といえば事件だろう。
それでこの作画崩壊事件によって、
広く世に知られるようになった。
その後もプロデューサーが変わって
放送を続けている。
まぁグレンラガンのあれこれに関しては
ここでは控えよう。
僕がこの作品を見て思ったのは、
もしかしたらこの作品は
時代のすべてを背負って立とう
としているのではないだろうか?ということである。
いや、まぁこんな言い方はおおげさだろう。
しかし、見ればわかるのだが、
明らかに狙った作画スタイルの変化ぶり。
時代を背負えるのかどうか、
またそのつもりがあるのかどうか、
その真偽はわからないが、
その変化がただ単に作画作業が間に合わなかったので、
手を抜きましたといったことだけで片付けるのはもったいない。
ずっと現代美術にかかわっている僕は
どうしてもそこに作者の意図を感じてしまう。
感じようと努力してしまうというか・・・。
その証拠に第4話以降も作品の随所に変化がみられる。
前のクォリティーに戻そうと努力しているようには見えない。
やはりそこには狙いがあるように思えてならない。

スタイルの放棄

作家と作品の関係性において
自己の感情やモチベーションと
作品のスタイル、スタンスといったものは
緻密に関係している。
どんなものを作るにしても、
そのときに何を感じているのか、
それはどうしても作品の表面に出てしまうものだ。
嘘は付けない。良い意味でも悪い意味でも。
最初は自分がコントロールしていた作品が、
あるとき反旗を翻して、一人歩きし始め、
作者自身ではどうしようもなく勝手に走っていってしまう。
そういうことがある。
いやいや、ここであまり作家の内心のあれやこれやを語るのは
やめておこう。なんというか恥ずかしいことなのかもしれない。
まぁときどき作品に作らされているような
そんな感情にとらわれることがある。
真面目な作家なら誰しも感じることだろう。
それは結構苦しかったりするものだ。
作品を魅せようとして作ったスタイルが
自分自身を縛っているように感じるのだ。
作品を作る。何も無いところから作る。
これは楽しいものだ。生みの苦しみという言葉があるとおり、
もちろん苦しさを伴うものだが、その苦しさを超えて
作品が生み出されたときの高揚感は楽しい。
自由だ。
だが、あるときその作品が自分を縛ってくるのである。
不自由だ。
自由から出発したはずなのに、
不自由にたどり着いてしまう。
そんなことは作家じゃなくても
誰しも感じることなのではないだろうか?
いやいや、人を巻き込むのはやめよう。
僕は感じる。よく感じる。
制作するときだけでなく、日常でも感じる。
まぁ愚痴るのはこのくらいにして、
本筋にもどろう。でもグダグダ考えるもの楽しいのだが。
自由から始まった不自由をどうやってまた
自由に還元していくのか?そこのところが結構問題だ。
結構なんて言葉を曖昧にしたが、
僕の場合、これが最大の問題であったりする。
作品を作る上での興味とモチベーションは
自由から生まれた不自由をまた自由に還元出来たとき満たされる。
快感なのだ。
つまり今まで作ってきたスタイルを
ぽーんと投げ出すことが出来たとき、
結構面白かったりするし、なんというかその高揚感は計り知れない。
こういってしまうと、
「それじゃ作品そのものが成り立たない」
なんて反論がありそうだ。
それはそうである。
何も考えずぽーんと投げ出してしまえば、
むちゃくちゃになってしまう。
なんでもかんでも作品になるわけじゃもちろんない。
やっぱりそこは推敲というか技が必要だろう。
いや、僕の場合考えすぎて作品が作れないということがよくあるので、
ちっぽけな頭で考えたちんちくりんな推敲など
むしろ、ぽーんと投げ出してしまったほうがいいのかもしれない。
たいした技も無いのかもしれない。
いやそうは思いたくないのだが。
また話がそれはじめた。もどそう、もどそう。
スタイルを投げ出しつつも、作品を成り立たせること。
それが出来ればいいのである。

萌えの優しさ

オタク、おたく、ヲタク。
いまやオタクであってもなんら恥ずかしいことはない。
いや、ぼくが中学生や高校生のころは、
オタクなんてことばばれようものなら
もう市民権を剥奪されたも同然だった。
みんなに白い目で見られるのである。
自分がオタクであるってことは
なにがなんでも隠さなきゃならなかった。
いまは全然そんなことは無い。
アキバの街もなんというか堂々とアキバをしている。
こそこそ感がまったく無い。
いや、別にそれがどうってこともない。
昔はよかったなぁ〜なんて言ってるやつらはくそ食らえである。
ごめんなさい。言葉が汚い。だが本心だ。
懐古してもなにも始まらないし、現状は変わらない。
いやいや、どうしても現状に満足いってないような
口ぶりになってしまうが、そこまで満足してないわけでもない。
満足いってないか、満足いってるかといえば、
満足いってない方だと思うが・・・。
そんなことはいいとして、
オタクも嬉々としてオタクをする。
そんな世の中だ。
むしろオタクであるほうが素晴らしいんじゃないか?
そんな雰囲気さえある。
実は僕もそう思ったりするのだが。
オタクが普通に暮らす。
同時に、「萌え」という言葉も世の中に浸透している。
前回のヴェネチアビエンナーレの日本館でも使われていた。
これはもう4年も前の話だ。
そう考えると、僕のここでの話も
ずいぶんと古臭い話なのかもしれない。
そんなことを言っててはいけない。
いいのだ。古いかどうかなど。
萌え。もえ。モエ。Moe。
いったいこの言葉が何を意味するのか。
またこの言葉が指すものはなんだろうか。
いまいちつかめない言葉である。
これが萌えですよとはっきり説明できる人はあまりいないだろう。
言葉の意味とは相対的に出来上がっていくものだ。
萌えはまだ固まらない言葉だ。
いや、もちろん辞書には載っている。
だがここで言うのは、
オタクにとって萌えとは
どういう意味でどういう感情を指すのか?ということである。
ある人いわく、「〜ならなんでもいい」
という感情だという。
これはわかりやすい。
綾波ならなんでもいい」
「ネコ耳ならなんでもいい」
「メイドならなんでもいい」
「スマップならなんでもいい」 スマップの例はないか・・・
ガンダムならなんでもいい」
あまりお洒落な良い例が浮かばなかった。面目ない・・・。
ここで本来なら気の利いた冗談でも飛ばしながら、
話を進めるのが読者に対する礼儀というものだが、
ぼくにどんな器量がないのもまた事実なので、
この情けない自分を受け入れて、話を進める。
たしかに「〜ならなんでもいい」というのはわかり易い。
そういうところがオタクにはある。あくまで一面だが。
一面というのは総体で見ると、である。
個々は別だ。むしろオタクはこだわりで出来てるようなものだ。
まぁそれはいいとして、だがしかしである。
綾波ならなんでもいい」
といっても、同人のサイトをみたりしていると、
「ちょwwwwこれはひどい綾波wwwwwwwww」
なんて思えるのはいくらでもある。
ネコ耳でもメイドでもガンダムでもスマップでも同じである。
スマップ・・・・? スマップはどうか知らないが、
本物と全然ちがう綾波が美少女として扱われ、
ちやほやされている光景なんて珍しくない。
明らかにおかしかったりする。
しかし、やっぱりオタク間では
綾波ならなんでもいい」と事は穏便に終わっているのだ。
いや待て!と異論を唱えるものはいない。
いやまぁオタクの総体がいや待て!
の連続でできあがってるようなものだが、
ここでそんなことを言い始めると話が進まない。
つまり明らかにおかしいものでも
「〜なんでもいい」という感情で
すべてが穏便に平穏にそこはかとなくマターリ進んでいく。
それがオタクの世界だ。世界というとおおげさだが、
そんなオタク事情だ。
おかしいものも、本来なら許せるはずのないものも、
「まぁいいじゃん」と言える感情。
これが萌えだとしたら、なんと優しいことだろう。
容認不可能なのもが人に容赦されてはばからない世の中。
あらゆるカオスがありのまま存在する世界。
すばらしい事なかれ主義である。
だめだ、どうしても言葉が大げさになる。
あまり言い切るのも控えねばならない。
ここまで書いてきて、普段はあまり書かないものだから、
僕もすこし感情が高ぶっているのだろう。
休憩をとる必要がある。
つづきはまた今度ということで
今日のところは失礼します。
(→次回予告「スタイルの放棄は他力本願」)