燃える魂vol.2 

atsushi-demi2007-06-13

スタイル放棄は他力本願

前回ブログをアップしたときに長々と書いてきた。
グレンラガンをみたときにピーンときてしまったのだ。
ちょっと筆が進まないものだから、
もう一度自分が書いてきたものの流れを確認したい。

グランラガンを見た。

スタイルの放棄は気持ちいい

萌えはやさしい感情

暴力的に省略しているが、
何のことかわからない読者は前の日記を読んでいただきたい。
などと言うと偉そうなので、どうか読んでください。
ここで詳しく書いていると至極まじめな自分のことだ。
また同じ内容をだらだらと書いてしまうことになる。

前回の予告のとおり、
今日のタイトルは『スタイル放棄は他力本願』
スタイルの放棄は容易にできるものではないが、
人の力を借りることでそれは果たせるのであろうと、
自分の快楽は他人の力によって得られると、
まぁなんとも気楽な話である。
気楽な話ではあるが、
言い換えれば人がいてこその自分ということである。
人という字は二本が支えあってでk(ry
とこれまたもっともらしいことを並べている。
スタイルの放棄、これは快楽であるのだが、
作品をつくる快楽そのものがなくなってしまいかねない
いわば諸刃の剣である。
本末転倒、もともこもないというやつである。
なぜ、そうなのか。
一貫したスタイルがない作品は
同一性にかけるからである。
なぜ同一性にかけるのか。
前の絵柄と今の絵柄と先の絵柄が
つながらないようにみえるからである。
ここが問題で繋がっていれば問題ないのだ。
繋がっているように見せればいいのだ。
幸い、「〜ならなんでもいい」の〜には
綾波、ネコ耳、メイドなどなどが入っていたが、
ネコ耳はネコっぽい耳、メイドはメイド服
綾波は青いショートヘアに神秘的な目などなど
〜を決定しているのは細部である。
この細部の設定さえ守っているのなら
まぁどんなにデッサンが狂っていようと
綾波綾波にみえる。
自発的にみえなくとも、綾波だと言われれば、
まぁ綾波かもなと、そのくらいの気持ちにはなれる。
なのでスタイルを放棄しても
その細部の設定においてルールを守っているのなら、
えーこんなのおかしいでしょwwwといわれても
誰なのか、何なのか、そのくらいは判断できるようだ。
そもそもおかしいと言えるのは、
前の〜と比べてこの〜はおかしいと
少なくとも、前と今を比べている以上、
判断できていると思ってもいいのだろう。
つまり、細部のデザインや設定。
そういったルールを守るのなら、
どんなにスタイルを放棄しようと
人はそこにつながりを見つけ、
その人の中でストーリーを紡いでくれるのだ。
このルールを僕は環境と呼びたい。
環境の保全は「〜なんでもいい」の世界平和へと繋がるのである。