自分の役割

第八話まで見た。
おおきく振りかぶって
第七話でひとつの区切りがくる。
初試合が勝利のうちに終わるのだ。
チームが一丸となって支えあうことで、
勝利をもぎとり、
自信のなかった投手が自信を取り戻す。
いい話だ。
それにしてもなんでこんなに泣けるのだろうか。
涙が止まらない。
ふと思いつく。
自分のやりたいことがここに在るのではないのだろうか。
いやいや、野球じゃありませんよ。
チームプレーだ。
僕は自分に自信がある。昔からそうだ。
別に自慢とか自己主張じゃありません。
本当にそう思っているのですが。。。
展示などをするときにずっと言ってきていることだが、
工房形式の制作のことである。
作品は工房形式によって創作されるべきだと僕は考える。
僕もいい年だ。
僕の周りもいい年だ。
そんない若いわけじゃない。
25を過ぎればあとはあっという間に
35になるとどこかで聞いた。
それがいま良くわかる。
周りもそうなのだろう。
みんな焦る年だ。
僕の友人はいま悩んでいる。
6月28日の誕生日で彼は30になる。
三十路。
彼は重くおおきい決断をきめたいとそう僕に言った。
書き方がなんだか情に流されているっぽいが、
いま僕は泣いた後なのだ。だからこれでいいのだ。
話を戻すが、おおきく振りかぶってを見て、
ピッチャーとキャッチャーのバッテリーのあれやこれや
信頼関係というものが描かれていて、
どうやら僕はここに弱い。
シーンの一つ一つにそりゃぁもうぐぐっときてしまうのだ。
そして僕の友人。彼とは長い付き合いだ。
僕は僕が「売れる」ことばかりを考えているが、
なんだか最近は制作が思うように進まない。
なんでこんなに進まないのか。
自分でも良くわからない。
なにかボタンをどこかで掛け違えたのだろうか。
こういうときは自分に自信があるところまで戻るべきだ。
工房形式。アートという業界。
好きなのだ。やりたいのだ。
何が言いたいのか良くわからなくなってきたが、
僕が「売れる」ことを考えるより、
僕は「いいもの」に感動することを考えるべきじゃないだろうか。
いや、別に作家をやめようということじゃない。
作り手であるべきだと思う。
ただ、自分より優れたものを認めることが重要だと思う。
そして長いこと付き合っている彼は
いいセンスを持っている。
たしかに弱いところはあるが、
センスがあるのだ。
センスなんてものは努力しなきゃなんにもならない。
そう思う。
だがもって生まれたものというか、
生まれた状況そのものが作り出す出発点というか、
そういうものはあるように思う。
どんなにあがいてもぬぐいきれない、
宿命というものだ。
そういうセンスに光るものを探り当てる。
これは僕のセンスだと思う。
探り当てたものを形にしたい。
それは自分ひとりではできないことなのだ。
他力本願ということを前にチラッと書いたが、
人の力を纏め上げてひとつにしたいのだ。
支えあうことはすばらしいとかそういうことじゃなく、
そのほうが規模が大きいことができるのだ。
そして波紋をつくるには
思いのほか、大きい力が必要なのだ。
彼は今、決意をしようとしている。
僕はこのタイミングで
なにができるのだろう。
「彼のために」ではない。
彼のためにできることなどないのだろう。
この状況を精一杯感じて、
自分のできることがしたい。
そもそもスタイルの放棄とはそういうもののはずだ。
自分の背景をすべて忘れ去って、
まっしろになったところに
何かを生み出すべきなのだ。
いま僕は連休中だ。この連休。
僕はなにかを生み出すべきなのだ。

あぁ大好きだ

おおきく振りかぶって
これはいい!
第五話まで見てもう目が・・・
泣ける。泣けすぎる。
なんだろうか。
今日たまたま見たのだが、
こんなに好きになってしまっていいのだろうか。
いや、いいのだ。
一期一会なのだ。
これは恋なのだ。
熱く燃え上がれば輝きは一瞬でいいのだ。

寒いくらいにいいやつら

嘘みたいに話がうまいこと進んでいく。
なのにどうしてこんなに嫌悪感がないのだろう。
おおきく振りかぶって
第二話でまぁ初回は感動したが、
こんなもんだろうと思ったが、
第三話で号泣きだ。
一人はみんなのために。
うそだろう。こんなことあるはずがない。
でももし本当にあるのなら、
どんなに救われることだろう。
そんなデッドポイントをついてくるのだ。
あーいいやつらだこいつら。
監督も巨nyでかわいいし。
あーなんていいんだこの話。
野球まったく知らないのに面白い。

涙が洗い流してくれる

atsushi-demi2007-06-29


http://www.nicovideo.jp/watch/sm143816
↑ニコニコで申し訳ないが
おおきく振りかぶって
第一話しか見ていないが、
なんだろうか。こんな経験は初めてだが、
不覚にも第一話から感動して泣いてしまった。
いや、泣けるようなシーンはないのだ別に。
だが、泣いてしまったのは本当だ。
第二話を見るときはオープニングで
うるうるしてしまっていた。
スポーツモノ。野球モノ。
まったく好きじゃなかったジャンルで
ここまで感動していいのだろうか。
いいのだ。青春なのだ。
爽やかで切ないのだ。
この作品には凝縮された稚拙なエネルギーが存在する。

燃える魂vol.5

atsushi-demi2007-06-24

後悔しない公開

いよいよ第4話なわけだが、
問題の一話である。
この一話によって製作関係者のブログが炎上し、
結果、プロデューサー兼取締役が辞任交代することとなる。
そのブログを僕も読んだのだが、
確かに、ひどい言葉遣いであった。
責任あるものの発言ではないように思われた。
いや、ブログとは個人の感情の吐露の場所でもあるのだ。
だから彼は公の発言のつもりはなかったのかもしれない。
だがマスメディアに関わるものとしてそれはあまりに無責任であろう。
やっぱり彼の発言は適切でない表現をたしかに含んではいたのだ。
まぁそんなこんなでこの辞任劇は致し方ないのかもしれない。
だがその事件によって彼らが本来何をしたかったのか?
それが曖昧になってしまうとしたら
これほどもったいないこともないのではないのか?
僕はもったいないと思う。
事の原因は作画の乱れだと
この第四話を見たものはいうだろう。
ほとんどの鑑賞者がこのあの作画はあまりに
おかしいと。手抜きだと。時間がなかったのか?と、
そう言うだろう。
実際にニコニコ動画で見てみればいい。
コメントのほとんどが第四話を否定し、
罵って貶している。
見なくてもいい。無かったものにしようとしている。
だがここで問題なのは、
ほとんどの鑑賞者が否定したくなるような作画を
では何故あえて製作側は提示したのであろうか?
ということである。
あらかじめ言っておくが
ただ単純に時間がなかっただの、手抜きだの、下手くそだの。
そういった非難はここでは何の効果もない。
むしろ自分の鑑賞者としての質をさげるだろう。
いや、そんな大げさなことでもないのかもしれない。
だがである。
いやいや、見てくれよ。映像を!
あからさまじゃないか、あの作画。
明らかに意図があって下手にしている。
わざとに決まっているのだ、あの描き方は。
わざとそうしているのだから、
下手だと言ってなんになるのか。
だから僕は気になってしょうがないのだ。
いったいどんな意図があったのだろうと。
いや、こう言ってもあれですよ。
ほとんどの人がやっぱり思うと思うんですね。
どんな意図があったにせよ、
あの作画は好きじゃないと。
まぁそうでしょう。しかし僕が言いたいのは、
ではなぜ四話後半部分の合体シーンでは
作画に以前のクオリティーが戻っているのか?ということである。
そこには歴然とした質の違いが見て取れるだろう。
だからやっぱり製作側はわざと下手に描いているのだ。
そう。問題はなんであの合体シーンだけ
作画をもとに戻したのか。
その他のシーンと区別を付けたかったのか?である。

公開ということ

ここでこの燃える魂シリーズの最初に触れたことに戻ろう。
僕は最近はよくアニメをみるのだが、
そのきっかけは魔神英雄伝ワタルを見たことにある。
まえにも少しちがう題名のブログで書いたのだが、
そのフレッシュさに驚かされた。
もちろんその感動の中の何割かは
懐かしさがあっただろう。
何割というかほとんどかもしれない。
だが、魔神英雄伝ワタルを見たときに
薄っぺらな明るさとファンキーさに
ほんとうに感動した。
あそこまであけすけに
楽しそうにできるものだ。
エヴァ以降、あんな元気な主人公を
アニメに登場させるのはタブーだったんじゃないか。
戦隊モノのヒーローもウルトラマン
どの主人公も悩まなくてはならなかったように思う。
ワタルにはそれがない。
はっきりいっておもしろかっこいいぜ!には
裏がないように見える。
底意がないように思えるのだ。
いや、もちろん製作側にはあるだろう。
だがそういった裏側の事情を無視して楽しませてくれる、
ぶっとんだ雰囲気があの言葉にはある。
単純に言えば、アフォにみえるのだ。ワタルは。
アフォに見える。これはとても大切なキーワードに思える。
底意を見せない。いや、逆に底意まで徹底してみせる。
これがグレンラガンの第四話にも通じるポイントだと思う。
胸のうちの公開。暴露。
実際、第四話中の冒頭のシーンでは
腹が減って力が出ないカミナとシモンの描写があり、
その後、無意味な合体訓練シーンへとつながる。
気合の入らないシモンに向かって
カミナが岩を投げるのだが、
なんというか無意味さが漂う。
作画の不器用さとあいまって
作品と鑑賞者がかみ合わない。
そういった空気がある。
それは後半で16ガンメンの登場あとも続くのだが、
シモンのジャンプとともにアニキが叫び、
合体シーンになる。
そこの部分だけ作画にクォリティーが戻る。
言うのを忘れたが、ここでの伏線として、
途中「カミナが合体は男のロマンなんだよぉー」と
叫ぶシーンがある。たしかあったように思う。いや、三話だったかな?
不確かだが、とにかくそういうシーンはある。
そのロマンが輝くのが第四話の合体シーンなのだ。
はっきり言って、第四話。
この合体シーンだけだ。他のすべてがこの合体シーンのための伏線だ。
その合体シーンは結局「気合」だけで成功する。
ここから少々強引だが、もう少しがんばって自分の考えを書いてみると、
つまり「気合」なのだ。
ワタルでもノリとか気合があった。
いろんな理屈をほっぽり出して
細かいことは気にさせない気合が必要なのだ。
なんというか僕たちは
「気合が大切!」というより
「気合しかない!」
という現実に直面してるんじゃないのだろうか?
グレンラガンを見て僕はそう思わずにはいられない。
いやいや、センチメンタルになるのは危険だ。
感傷は鑑賞を曇らせる。
だがこの鬱々としたニュースの多い今日この頃。
なにか暗雲をパァ〜っと晴らしてくれるような、
胸のすく爽快な力が必要に思える。
馬鹿でアフォなやつらが力いっぱい叫ぶ。
男の合体にこだわって、命を張る。
それは目の前の敵を倒す、即効性でなく、
生きる指標を示そうというような、そんな態度であるように思われる。
いや、もちろん製作側がこのことを意図しているのかどうか、
本当のところはそれはわからない。
もっと他に狙ったところはあるのかもしれない。
だがそんなことはどうでもいいのだ。
僕はこのことに感動したのだから。
この後カミナは死ぬ。
このこともびっくりだ。
普通死なないよ、こういうキャラ。
そりゃたしかに主人公ではない。
が、ここまでのグレンラガンでは確実にキーパーソンなのだ。
だが彼は死ぬ。
これはつまり「男は気合」それも死ぬということだ。
カミナが死ぬのは確か第八話だっただろうか?
それ以降、またこの作品は変わっていくのだろう。
ぼくはそれについていかなければならない。
このスピード感あふれる作品はぼくをどこまでつれていってくれるのか?
楽しみだ。